横浜市中区本牧エリアは、横浜の主要な観光スポットが集まる関内地区の南側に位置し、海岸部一帯に広がる地域です。古くからの歴史を持ち、景勝地として愛されてきた一方で、戦後は大きく姿を変え、現在では多くの住宅やマンションが立ち並ぶベッドタウンとしての側面も持っています。
ここでは、横浜市中区本牧エリアの成り立ちから現在に至るまでの変遷、住宅地の特徴、そして代表的なスポットについて、本籍地が本牧であり、公私でも良く訪問する筆者が詳しく解説します。
横浜市中区本牧とは?歴史と概要
本牧は、神奈川県横浜市中区の南東部に位置する地域です。古くは「本杢」と書かれ、江戸時代以前から記録に見える歴史ある土地です。地形的には台地が東京湾に突き出した部分にあたり、かつては突端部に断崖が切り立つ景勝地として知られていました。この断崖は「本牧岬」あるいは「本牧の鼻」と呼ばれ、外国からはペリーによって「マンダリン・ブラフ」や「トリーティー・ポイント」と名付けられるなど、横浜港へ向かう船の目標ともなっていました。
また、複雑な潮流を持つ豊かな漁場でもありました。古くから風光を愛され、外国人からは根岸湾にかけての海岸が「ミシシッピ・ベイ」と呼ばれていたようです。現在でも、南部の本牧市民公園付近には当時の断崖の一部が残っており、海岸の名残を感じさせます。

※本牧市民公園内 筆者撮影
明治時代には、製糸・生糸貿易で財を成した実業家 原富太郎(原三溪) がこの地に広大な別荘を構えました。彼は単に事業家としてだけでなく、古美術・近代日本美術の大コレクターであり、日本美術院を中心とした画家の支援を行うなど、文化サロンの役割も果たしていました。原三溪の別荘は後に「三溪園」として市民に公開され、現在に至るまで100年以上もの間、横浜を代表する観光地としてあり続けています。
戦後、本牧エリアの歴史は大きな転換点を迎えます。太平洋戦争の敗戦直後、本牧十二天(現在の本牧神社)を含む中央部が米軍によって接収され、多くの住民が強制退去させられました。接収された地域はフェンスで囲まれ、警告板が設置されるなど、一般の立ち入りが制限された時期が続きました。
米軍による接収解除後、本牧エリアは再びその姿を変えていきます。広大な埋立地には埠頭や工場、製油所などが建設され、横浜港の物流の拠点としての機能が強化されました。また、かつての接収地を中心に大規模な再開発が進み、高層マンションが次々と建設されました。これにより若い世代の人口が増加し、本牧は横浜郊外の有数のベッドタウンとしての性格を強めていきます。かつてはマイカル本牧という巨大なショッピングセンターがありましたが、現在はイオン本牧として営業しており、地域住民の生活を支えています。
現在の本牧・根岸地区は、古い伝統と閑静な住宅街の雰囲気、そして埋立地に広がる埠頭や工場群 という多面的な顔を持っています。大規模マンションの建設により若い世代も多く、古くからの世代を含め、様々な世代の活動や交流が活発に行われています。住民だけでなく、学校、企業、医療・福祉関係の事業所も地域の活動に参加しており、地域とのつながりを大切にしています。
古い歴史と景勝地としての本牧
- 本牧岬と世界の船の目標: かつて東京湾に突き出した断崖は、日本の船乗りからは「本牧岬」や「本牧の鼻」と呼ばれ、外国の船からは「マンダリン・ブラフ」「トリーティー・ポイント」として認識されていました。これらは、横浜港へ入港する船にとって重要な目印でした。
- 外国人にも愛された風光: 明治時代には、根岸湾一帯の美しい海岸線は外国人にも愛され、「ミシシッピ・ベイ」と呼ばれていました。現在、三溪園となっている場所に別荘を構えた実業家・原三溪も、この地の景観に魅せられた一人です。
- 豊かな漁場: 本牧の海岸は複雑な潮流を持ち、古くから豊かな漁場としても栄えていました。
- 文化人も住んでいた本牧:1921年から22年にかけて、谷崎潤一郎が本牧宮原に住んでいたという記録があります。また、芥川龍之介は、原三渓の長男で三渓園に住む親友の原善一郎を訪ねたという記録もあるようです。さらに、山本周五郎は、本牧間門を仕事場としながら、本牧元町39-41に住んでいたとも言われています。
米軍接収時代とその影響
- 戦後の強制退去とフェンス: 太平洋戦争終結後、本牧エリアの中央部は米軍に接収され、日本人住民は住み慣れた土地からの退去を余儀なくされました。接収地は厳重なフェンスで囲まれ、一般人が立ち入ることはできませんでした。
- 残る歴史の痕跡: フェンス際には警告板が設置され、憲兵隊や日本の警察官が警備にあたるなど、接収時代の緊張感が漂っていました。接収解除後、土地は返還されましたが、この時代の歴史は今も語り継がれています。
再開発とベッドタウン化
- 大規模マンションの建設ラッシュ: 米軍接収解除後の再開発により、本牧エリアには大規模な宅地開発が進みました。これにより、若いファミリー層を中心とした新たな住民が増加し、地域に活気をもたらしました。
- マイカル本牧の誕生と変遷: バブル景気絶頂期の1989年には、映画館やホテルを備えた一大商業施設「マイカル本牧」が開業し、多くの観光客も訪れる賑わいを見せました。本牧よりも利便性の高いみなとみらいの方に客層が移るなど、時代と共にその姿は変わりましたが、現在は地元住民がおもに利用する「イオン本牧」として地域最大の商業施設となっています。
本牧の住宅地の特徴と代表的なマンション
本牧エリアは、歴史的な変遷を経て、現在では多様な住民が暮らす住宅地となっています。古い街並みが残る地域もあれば、再開発によって誕生した大規模マンション群が広がる地域もあり、様々な居住形態が見られます。
本牧・根岸地区の人口統計を見ると、総人口、世帯数ともに近年はやや減少傾向にあります。一方で、高齢化率は23.5%(平成31年3月時点)と上昇しており、高齢者の増加が進んでいます。特に75歳以上の単身世帯数が区内で一番多く、増加傾向にあることが地域福祉の課題として挙げられています。しかし、子供の数は減少しているものの、14歳以下の人口割合は13.2%と区内で最も高く、大規模マンションの建設により若い世代が多く転入しているという特徴も見られます。
住民の居住年数にはばらつきがあり、古くから住む住民と新しく転入してきた住民が混在している様子がうかがえます。また、外国人の住民も多く、中国、韓国、台湾、フィリピン、米国など、多国籍な人々が暮らしています。
このような本牧エリアには、再開発によって誕生した大規模マンションや、丘陵地の地形を活かして建てられた特徴的なマンションが見られます。
※マンション名をクリックするとGoogleMapによる立体地図が表示されます
斜面マンションと斜行エレベーター
横浜市は市域の7割以上が丘陵地・台地で占められており、斜面に沿って建てられた「斜面マンション」が多く存在します。本牧エリアも多くはないですが、丘陵地を利用したマンションが見られます。また、マンションの中には、高低差を克服するために「斜行エレベーター」を備えているものがあり、これは非常に特徴的な設備です。

※根岸側から本牧間門方面 筆者撮影
横浜市では、斜面地における「地下室マンション」に関する条例を定めており、周辺の住環境との調和や景観美化のために高さ制限や盛土の原則禁止、緑地・空地の設置などが義務付けられています。これは、高低差3mを超える共同住宅などで、地階に用途部分を持つものが該当します。
本牧エリアには、斜行エレベーター付きマンションとして、グランドメゾン三渓園があります。このマンションは崖の上に建てられていることから、斜面マンションではないものの、崖の上までの急な勾配を斜行エレベーターが昇り降りする姿は非常にインパクトがあります。東京湾岸道路からもその特徴的な構造と斜行エレベーターを見ることができます。
通常の入り口は斜行エレベーターとは別に設けられており、周辺を歩くと発見できます。マンションの隣には1937(昭和12)年に、逓信・内務大臣を歴任した安達謙蔵が精神修養のための施設として建立した八聖殿があります。
また、マンションは本牧車庫前バス停の近くに位置しており、交通の便も良い場所にあります。隣接する本牧臨海公園や本牧市民プールなど、周辺環境も整っています。
その他の代表的なマンション
本牧エリアには、他にも様々な特徴を持つマンションがあります。
パークシティ本牧

※筆者撮影
パークシティ本牧は総戸数667戸の大規模マンションで、オートロックなどの設備が整い、ペットと一緒に暮らせる環境も提供しています。京浜東北・根岸線 石川町駅やみなとみらい線 元町・中華街駅からバスでアクセス可能で、バス停「本牧宮原」から徒歩圏内です。周辺にはイオン本牧、横浜本牧原郵便局、本牧いずみ公園があり、生活利便性も高いと言えます。筆者もこの周辺を良く走っていますが、公園もあり緑豊かであることから、散歩している人も非常に多く見かけます。
本牧にある斜面マンション
先ほども紹介した通り、起伏がある本牧地区においては、斜面地に立つマンションも見られます。具体的には、サンクタス横濱山手(本牧荒井)、コスモ山手(池袋)、クレストフォルム横濱山手(本牧満坂)、ランドシティ横濱山手の杜(本郷町)などが挙げられます。
神奈川県住宅供給公社 大里団地

※筆者撮影
本牧の中でもとりわけ古いマンションとして有名なのが、本牧大里町にある大里団地です。
大里団地は、1951(昭和26)年に建てられた、横浜市内でも最古のマンションと言われています。訪問する度にいつまでも存続して欲しいと思いながら見ています。

※筆者撮影
本牧の代表的なスポット
本牧エリアには、歴史的な名所から地域住民が集まる公園、商業施設まで、様々なスポットがあります。
三溪園
実業家 原三溪によって造られた広大な日本庭園で国の名勝にも指定されています。京都などから移築された多くの歴史的建造物が配置されており、国の重要文化財に指定されているものも多数あります(臨春閣、月華殿、春草廬、旧燈明寺本堂、旧東慶寺仏殿、旧矢箆原家住宅、天授院、木製多宝塔など)。
園内には原三溪の業績や収集品を展示する三溪記念館や、復元された旧原家住宅である鶴翔閣もあります。四季折々の自然が美しく、春は観梅会や桜のライトアップ、夏は蓮の鑑賞会(観蓮会)など、季節に応じたイベントも開催しており、見どころ満載で遠方からも多くの観光客が訪れる場所です。
公共交通機関を利用する場合、JR根岸駅や桜木町駅、みなとみらい線の元町・中華街駅などからバスでアクセス可能です。

※三渓園の観蓮会開催時に筆者撮影
本牧山頂公園
かつては米軍住宅地であった場所に1998年に開園した丘の上に位置する横長の公園で、展望台からは横浜港や市街地を一望できます。地域住民の憩いの場となっています。


※筆者撮影
本牧市民公園・本牧臨海公園
三溪園に隣接する広大な公園です。緑豊かな環境で、散策やレクリエーションを楽しむことができます。本牧市民公園にはプールも併設されており、夏は多くの子ども連れで賑わいます。
イオン本牧
前述でも紹介しましたが、かつてのマイカル本牧の跡地に立つ商業施設です。スーパーマーケットや専門店が入居し、地域住民の買い物を支えています。

※イオン本牧施設内 筆者撮影
横浜港シンボルタワー
本牧埠頭の先端に位置し、横浜港に出入りする船を見守るように立つタワーです。展望台からは港の景色やベイブリッジを眺めることができます。
現在の本牧の取り組みと将来像
本牧・根岸地区では、地域住民が安心して暮らせるまちを目指して、様々な取り組みが進められています。自治会町内会や民生委員・児童委員を中心に、サロンや高齢者食事会などが活発に行われ、地域のつながりが育まれています。コロナ禍で一部活動の中止もあったものの、本牧ライトアッププロジェクトやスプリングコンサートなど、世代を超えた交流イベントも継続されています。
第4期地域計画では、誰もが気軽に参加・交流できる場や機会を増やし、健康づくりの取り組みを進めること、そして住民同士の緩やかな見守りによる地域のつながりを深めること、災害に強い地域をつくることを目標としています。具体的には、地域活動の情報発信強化、趣味を活かした交流機会の検討、高齢者や障害のある人への支援、防災意識向上に向けた活動などが計画されています。
交通面では、横浜市営地下鉄グリーンラインの延伸計画や、次世代型路面電車LRTの導入活動など、利便性向上に向けた議論も行われています。
本牧のまとめ
横浜市中区本牧エリアは、かつて断崖の景勝地であり、原三溪が文化サロンを築いた歴史的な土地です。戦後には米軍による接収という特殊な時代を経て、現在は再開発による大規模マンション建設が進み、多様な世代が暮らすベッドタウンへと変貌しました。特に、丘陵地の地形を活かした斜面マンションや、それに伴う斜行エレベーターといった特徴的な住宅が見られます。
三溪園をはじめとする歴史的な名所や、広大な公園、商業施設なども揃っており、過去と現在が共存する魅力的な地域と言えます。地域住民による活発な活動や、将来に向けた計画も進められており、本牧はこれからも進化・発展していく街と言えるでしょう。
本牧の魅力を音声で解説!
今回のコラムでも、ナレーターによる音声での解説を入れています。
内容的には複雑なものはありませんが、読むよりも感覚的に本牧のことが分かる内容になっていますので、是非確認してみてください。
参考文献
今回のコラムで参考にした資料です。
✅横浜市中区役所 第4期中区地域福祉保健計画中なかいいネ!(令和3年度~7年度) 本牧・根岸地区
✅国立情報学研究所(NII)/CODH(一般財団法人 人文学オープンデータ共同利用センター) 神奈川県横浜市中区本牧元町 (141042250) | 国勢調査町丁・字等別境界データセット
✅国指定名称 三渓園 ホームーページ
✅Wikipedia 本牧 三渓園
✅横浜マンション管理・FP研究室 横浜市と周辺の斜行エレベーター付きマンション【地下室マンション】
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