「次回以降の管理委託契約の更新は、辞退させていただきます」
ある日突然、管理会社から届く1枚の通知書。あるいは、これまでの1.5倍〜2倍という、事実上の「お断り見積もり」の提示。 近年、こうした事例が後を絶ちません。
背景にあるのは、深刻な人手不足と人件費高騰です。しかし、それだけが理由ではありません。現場を深く取材・コンサルティングしていると、多くの「管理会社撤退」事案には、共通する「ある決定打」が存在します。
それが、「特定の居住者による、度を超えた要求」です。
本稿では、こうした行き過ぎた要求や態度を、便宜的に「不当要求(カスタマーハラスメント)」と呼びます。 正当な要望と一線を画すための基準も含めて、今回は感情論ではなく、マンション管理の「経営」と「法的リスク」の観点から、現実的な対処法を、経営にも詳しいマンション管理士が詳しく解説します。
なぜ今、管理会社は「静かなる撤退」を選ぶのか
「採算」と「リスク」のシビアな天秤
かつて管理会社は、多少の手間がかかっても契約を維持しようとしました。しかし、現在は「選別受注」の時代です。 管理会社にとって、理不尽な要求を繰り返す居住者がいるマンションは、単に「手間がかかる」だけでなく、「自社の社員(フロント担当者や管理員)を潰されるリスクが高い現場」と判断されます。
社員がメンタル不調で休職・退職すれば、その損失は計り知れません。 したがって、企業防衛として「リスクの高いマンションとは契約しない」という判断は、経営として極めて合理的であり、この流れは今後さらに加速します。
全員が連帯して払う「リスクプレミアム」の正体
「管理会社なんて、他を探せばいい」 そう楽観視している理事の方もいるかもしれません。しかし、その考えは危険です。管理会社が変更案件として見積り依頼を受けると、複数社が同じマンションの状況を調査することになります。
その過程で、過去の担当者の離職状況や住民トラブルなどの“評判”が市場の中で自然に共有され、結果として「リスクの高い物件」と認識されやすくなります。
その結果、トラブルを抱えたマンションの新規見積もりには、通常の人件費に加え、事実上の「リスクプレミアム(トラブル対応予備費)」とも呼べるコストが上乗せされるケースも珍しくありません。 例えば、通常のマンションなら月額50万円の委託費で済むところ、頻繁な電話対応や担当者のメンタルケア費用、万が一の訴訟リスクを見込んで、月額80万円(年間360万円増)といった、いわゆる“お断り価格”が提示されるケースもあります。
つまり、たった一人の不当要求を放置することは、全区分所有者が年間数百万円単位の「見えない損害賠償金」を管理費として払い続けているのと同じことなのです。この経済的損失を止めるためにも、感情論ではなく「管理コスト削減」の一環として対策に取り組む必要があります。
管理組合が背負う「法的責任」の重さ
「クレーマー対応は管理会社の仕事でしょ?」と放置している管理組合も危険です。
管理組合には、管理会社が安全に業務を遂行できるよう配慮し、必要な協力を行うことが求められます。こうした対応は、管理組合が負う善管注意義務の一部と位置付けることができます。
もし、ハラスメント行為を理事会が黙認し、その結果、管理員等が健康被害を受けた場合、管理会社から「職場環境配慮義務違反」を問われたり、損害賠償請求を含む法的なトラブルに発展する可能性も、決して否定はできません。
現場を疲弊させる「3つの不当要求(カスハラ)」類型
「カスハラ」というと、大声で怒鳴るイメージがありますが、実務上、より深刻なのは「静かなる消耗戦」を強いるタイプです。
その①「正義の暴走」型(過度な追及)
今、最も現場を悩ませているのがこのタイプです。
- 特徴: 規約や法令の一言一句を独自解釈し、連日、長文の質問状や改善要求を管理会社・理事会に送りつける。
- 問題点: 本人は「マンションを良くするための正当な権利行使」と信じているため、対話が平行線になりがちです。しかし、その対応に膨大な時間を奪われ、本来の管理業務が滞る時点で、それは「業務妨害」の性質を帯びます。
その②「勘違い」型(優越的地位の乱用)
- 特徴: 「管理費を払っている雇用主だ」という誤った認識を持ち、管理員や清掃員に対して高圧的な態度を取る、土下座や過度な謝罪を要求する。
- 問題点: 管理員の離職率に直結します。「あのマンションに行くと怒鳴られる」という評判が立てば、次の管理員のなり手は見つかりません。
その③「公私混同」型(契約外業務の強要)
- 特徴: 例えば「電球を交換しろ」「荷物を運べ」など、管理委託契約に含まれない専有部分のサービスを強要する。
- 問題点: 断ると「気が利かない」とクレームを入れるため、現場が疲弊します。
カスハラ防止細則を作る前に知るべき「5つの重要ポイント」
こうした事態に対し、理事会が個別に注意を行うと、「理事長の個人的な感情だ」と反発され、トラブルが泥沼化しがちです。 必要なのは、「客観的なルール(細則)」に基づく組織的な対応です。
制定にあたっては、以下の5つのポイントを押さえる必要があります。
定義は「客観的基準」に委ねる
独自の定義を作ると、「表現の自由の侵害だ」と反論される隙を与えます。厚生労働省の「カスタマーハラスメント対策企業マニュアル」等の公的指針を引用し、あくまで一般的な社会通念に照らして判断するという建付けにします。
「記録」を正当な業務フローに組み込む
言った言わないの水掛け論は、解決を遠ざけます。 「ハラスメントの疑いがある場合、事実関係の確認に必要な範囲で録音・録画を行う」ことを細則で明文化し、「証拠保全は正当な管理業務である」と定義することが、最大の抑止力になります。
対応は「理事長個人」ではなく「組織」で
対応窓口を理事長個人にすると、理事長が標的になります。 「理事会の決議を経て警告書を送付する」「必要に応じて専門家(弁護士・マンション管理士)を交えて対応する」と明記し、組織として対峙する姿勢をルール化します。
警察・法的措置へのラインを引く
「執拗な退去要請に従わない場合は不退去罪として通報する」「大声等で業務を著しく停滞させた場合は威力業務妨害として警察へ相談する」など、具体的なレッドラインを定めておきます。
執拗な退去要請に従わない場合には、刑法130条の不退去罪に該当する可能性があります。また、大声や威圧的言動により業務が著しく停滞した場合には、刑法234条の威力業務妨害として警察へ相談する対象となり得ます。
区分所有法59条(競売請求)を見据える
改善が見られない場合、最終的には区分所有法59条に基づく「競売請求」も視野に入ります。この法的手続きには「共同の利益に反する行為の継続性」の立証が不可欠です。細則に基づく警告と記録の積み重ねが、将来的にマンションを守る最後の武器になります。
失敗しないための「合意形成ロードマップ」
細則案がいかに完璧でも、進め方を間違えれば総会で否決され、管理組合に深い亀裂が入ります。特にカスハラ対策はセンシティブなため、以下の4ステップで慎重に進めることを推奨します。
STEP 1:実態調査(アンケート・ヒアリング)
いきなり「ルールを作ります」と言うと、「誰かを狙い撃ちにするのか」と勘繰られます。まずは管理会社や管理員へのヒアリング、あるいは全住民アンケートを行い、「実は多くの住民が、エントランスでの怒鳴り声に不安を感じていた」「管理員への過度な要求を目撃した」という「客観的な事実(ニーズ)」を掘り起こします。
STEP 2:素案作成とリーガルチェック
理事会内部、あるいは専門委員会で素案を作ります。この際、ネット上のひな形をそのまま流用するのではなく、必ずマンション管理士や弁護士などの専門家によるリーガルチェックを受け、上位規範(区分所有法・管理規約)と整合した「法的に耐えうる条文」に仕上げることが重要です。
条文の構造や制定手続に不備があると、将来トラブルが訴訟に発展した際に、細則自体の効力が否定されるリスクがあります。
STEP 3:住民説明会の開催
総会の前に、必ず説明会を開きます。ここで重要なのは、条文の読み上げではなく、「なぜこのルールが必要なのか(資産価値と管理員を守るため)」という目的の共有です。反対意見を持つ人のガス抜きをする場としても機能します。
STEP 4:総会決議
十分な根回しをした上で、総会に上程します。多くの管理規約では、細則の制定は普通決議(過半数)で可能ですが、念には念を入れて、出席者の大多数の賛成を目指しましょう。
総会で想定される「反対意見」への切り返し(Q&A)
細則を提案すると、必ずと言っていいほど出る「反対意見」があります。理事長が立ち往生しないよう、模範解答(FAQ)を準備しておきましょう。
Q. 「表現の自由」や「知る権利」の侵害ではないか?
A. 本細則は、正当な意見具申や質問を妨げるものではありません。あくまで「大声」「暴言」「長時間拘束」といった「手段・態様の不当性」を一定の範囲で制限するものであり、正当な意見具申の機会を奪うものではありません。
Q. 録音・録画はプライバシーの侵害ではないか?
A. 必要最小限の範囲で、無差別にではなく「トラブル発生時」や「業務妨害の恐れがある場合」に限定して行います。これは、業務の適正な遂行と、言った言わないのトラブルを防ぐための「正当な業務行為」であり、従業員の安全を守るために必要な措置です。
Q. 誰が「ハラスメント」と認定するのか?理事長の独断になるのでは?
A. 認定は個人の感情ではなく、厚生労働省の指針や本細則の定義に基づき、理事会(または専門家を交えた委員会)という「組織」で判断します。客観性を担保する仕組みを入れていますので、理事長個人の恣意的な運用は行いません。
まとめ:ルール作りは「平時」にこそ進めるべき
インターネット上には多くの「規約ひな形」が存在しますが、それをそのままコピーして使うことは推奨しません。 マンションごとの過去の経緯、住民の属性、現在の管理会社との契約内容によって、「どこまで厳しく書くか」「どう運用するか」の最適解が異なるからです。
また、特定のトラブルが起きてから慌てて制定しようとすると、「あの人を狙い撃ちにするのか」と無用な反発を招きます。 まだ決定的な亀裂が入っていない「今」こそが、予防策を講じるベストタイミングです。
「うちは大丈夫だろうか?」 「最近、管理会社の担当者の顔色が優れない気がする」
そう感じた理事役員の方。 手遅れになり、管理会社から「三行半(みくだりはん)」を突きつけられる前に、まずは専門家の客観的な診断を受けることをお勧めします。






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