川崎駅から歩いて20分ほど。住宅街を抜けながら目的地へ向かっていると、遠くに見慣れない建物が現れました。最初は大型の公共施設かと思いました。しかし近づくにつれて、それが住宅であることに気づきます。
川崎市幸区の河原町団地です。
写真では何度も見たことがありましたが、当研究室が実際に現地へ来るのは今回が初めてでした。そして現地で感じた印象は、事前に抱いていたものとはかなり違っていました。河原町団地はよく「巨大団地」と紹介されます。
確かに総戸数3,591戸という規模は圧倒的です。しかし実際に歩いてみると、驚かされるのは戸数だけではありません。
遠くから見える建物の形が、一般的な団地とはまるで違います。四角い住棟が並んでいるのではなく、巨大な建築物が地面から立ち上がっているように見えます。特に県営住宅部分に採用された逆Y字型の住棟は、まるで巨大な樹木が地面に根を張っているような迫力があります。
さらに建物の足元へ入ると、印象は大きく変わります。巨大な斜め柱、幾重にも重なるコンクリートの梁、頭上から差し込む光。その空間に立つと、普通の団地というより、SF映画に出てくる未来都市の内部に入り込んだような感覚になります。
一方で、そこには今も普通の生活があります。自転車が並び、洗濯物が干され、住民が行き交っています。建築作品として保存されているだけの場所ではありません。河原町団地は、今も人が暮らす生活の場です。
河原町団地を歩いて感じたのは、単なる古い団地ではないということでした。ここには、高度経済成長期の住宅不足、工場跡地の再開発、当時の先進的な建築思想、人口減少と高齢化、そして現代のマンション管理にも通じる課題が凝縮されています。現在建設されているタワーマンションや大規模マンションも、50年後には同じように歴史を重ね、同じような課題と向き合うことになるかもしれません。
なぜここに巨大団地が作られたのか
工場跡地から始まった再開発
河原町団地がある場所は、もともと東京製綱の工場があった場所です。さらにその前は沼地だったとされています。1918年に日東製鋼の工場が設置され、その後、東京製綱が買収しました。関東大震災後には、東京や横浜の工場が被害を受けたこともあり、この地に工場を集約して生産を行うようになります。
しかし1945年の川崎大空襲で、東京製綱の工場は大きな被害を受けました。その後、戦後復興を果たしたものの、1969年には茨城県へ移転します。その広大な工場跡地を活用して進められたのが、河原町団地の建設でした。
住宅不足が生んだ巨大プロジェクト
現在では川崎駅周辺にも多くのマンションが建ち、武蔵小杉方面にはタワーマンション群が広がっています。しかし河原町団地が計画された1970年前後は、現在とはまったく違う時代でした。都市部への人口流入が続き、住宅不足が大きな社会問題になっていた時代です。
今は人口減少が大きなテーマですが、当時の課題は逆でした。いかに多くの住宅を供給するか。都市部で働く人々に、どのように住まいを用意するか。それが行政や住宅供給公社にとって大きな課題でした。
河原町団地は、13.7ヘクタールに及ぶ広大な工場跡地を活用して建設されました。1970年から1975年にかけて建設が進められ、1972年には中心となる住棟が竣工しています。単にマンションを建てるというより、工場跡地に新しい住宅都市を作る計画だったと言えます。
河原町団地は住宅ではなく「街」だった
総戸数3,591戸の巨大住宅都市
河原町団地の総戸数は3,591戸です。市営住宅1,598戸、県営住宅1,300戸、市住宅供給公社253戸、県住宅供給公社440戸という構成です。現在でも3,000戸を超える住宅団地は大規模ですが、1970年代当時としては非常に大きな住宅供給プロジェクトだったはずです。
生活機能まで備えた街づくり
ただ、河原町団地が興味深いのは戸数の多さだけではありません。団地内には、小学校、保育園、集会施設、住棟内店舗が設けられていました。つまり、住宅を大量に供給するだけではなく、生活そのものを支える機能を団地内に組み込んでいたのです。
現地を歩くと、この団地が単なる住宅の集合体ではなく、一つの街として設計されていたことが分かります。建物があり、広場があり、人が集まる場所があり、生活を支える施設がある。住宅地というより、ひとつの都市単位として作られている印象です。
現代の大規模マンションとの共通点
近年では、晴海フラッグのような大規模開発や、商業施設・保育施設・共用施設を備えた大規模マンションが注目されます。しかし、住宅と生活機能を一体で考える発想は、決して新しいものではありません。河原町団地では、50年以上前にすでにその発想が形になっていました。
もちろん、当時の河原町団地と現代の大規模マンションを単純に比較することはできません。公営住宅や住宅供給公社による事業であり、分譲マンションとは所有関係も管理方式も異なります。それでも、「住宅を建てること」と「街を作ること」は別ではないという点では、現代のマンションにも通じるものがあります。
同じく神奈川県住宅供給公社が関わった大規模団地としては、横浜市磯子区の汐見台も興味深い存在です。団地を単なる住宅群ではなく、街としてどう設計し、どのように維持していくのかを考えるうえで、河原町団地とあわせて見ておきたい事例です。
逆Y字型住棟はなぜ生まれたのか

一目で分かる独特なデザイン
河原町団地を象徴するのが、県営住宅部分に採用された逆Y字型住棟です。現地で見ると、まずこの形に目を奪われます。下層部が末広がりに広がり、上部に向かって高層住宅が立ち上がる姿は、一般的な団地とはまったく異なります。
最初に見ると、奇抜なデザインのように感じるかもしれません。私も現地で最初に見たときは、なぜこの形にしたのか不思議に思いました。しかし調べていくと、この形は単なる意匠ではありませんでした。
建築家が解決しようとした課題
設計を担当したのは、大谷研究室、建築家の大谷幸夫氏です。大谷氏は、国立京都国際会館の設計でも知られる建築家です。河原町団地では、最大限の住戸数を確保しながら、日照、通風、プライバシー、大きな空地をどう確保するかが大きな課題でした。
高層住宅を高密度に建てれば、住宅は多く供給できます。しかし建物が密集すれば、足元は暗くなり、通風や日照も悪くなります。そこで考案されたのが、南北軸の全体配置と逆Y字型住棟でした。
現代マンションにも通じる発想
文化庁の資料では、河原町団地について、均等な採光・通風条件と内部への公共空間の確保を目指した住棟であると整理されています。また、冬至日照3時間とプライバシーを確保するため、14階建てと9階建てのブロック棟を千鳥状に配置したとされています。つまり、逆Y字型は見た目のインパクトだけでなく、住宅地としての環境条件を成立させるための形だったのです。
この点は、現代のマンションにも通じます。大規模マンションやタワーマンションでは、住戸数を確保しながら、日照、眺望、共用空間、プライバシーをどのように両立させるかが問われます。河原町団地は、それを50年以上前に高密度高層住宅団地として試みていたとも言えます。
集合住宅を単なる住戸の集合ではなく、共用空間や生活環境を含めた建築思想として見る視点は、世界遺産となったユニテ・ダビタシオンにも通じます。河原町団地の逆Y字型住棟を考えるうえでも、集合住宅の設計思想を比較してみると理解が深まります。
現地で見た圧倒的な吹抜空間

巨大な半屋外広場の迫力
河原町団地で最も印象に残ったのは、逆Y字型住棟の下に広がる巨大な吹抜空間です。資料上は30メートル×50メートルの半屋外広場とされていますが、数字だけではこの空間の迫力は伝わりません。
実際に中へ入ると、まずスケール感に圧倒されます。巨大な斜め柱が建物を支え、上部には住棟が重なり、コンクリートの梁が何層にも連なっています。見上げると、構造体の隙間から光が入り、巨大な人工空間の中にいるような感覚になります。
建築思想がそのまま形になった空間
最近のマンションでも、豪華なエントランスホールや吹抜のラウンジを見ることはあります。しかし河原町団地の吹抜空間は、そうした豪華さとはまったく違います。装飾ではなく、構造そのものが空間を作っている。見せるための共用施設というより、建築思想がそのまま形になった場所です。
共用空間が抱える管理の課題
この半屋外広場は、当初は子どもたちの遊び場として使われていたとされています。しかし現在は、落下物、騒音、ごみ問題などにより利用が制限され、祭礼などの行事利用が中心となっているようです。
ここには、マンション管理にも通じる大きなテーマがあります。理想的な共用空間を作ることと、それを長期にわたって使い続けることは別の問題です。設計時には魅力的だった空間も、実際に多くの人が暮らし、何十年も使われ続ける中で、管理上の課題が生まれます。
共用施設は、作った瞬間が完成ではありません。使われ方が変わり、住民構成が変わり、管理上のルールも変わっていきます。河原町団地の巨大な吹抜空間は、そのことを非常に分かりやすく示しているように感じました。
理想都市が迎えた50年後
子どもであふれた街の時代
河原町団地は、完成当時、多くの子育て世帯でにぎわっていました。河原町小学校の児童数は、1977年9月に1,906人を記録しています。現在の感覚では想像しにくい規模のマンモス校です。
少子高齢化による街の変化
しかし、その後は少子化と高齢化が進みます。河原町小学校は2006年に閉校しました。かつて子どもたちであふれていた学校は、高齢者施設やデイサービス施設などへと役割を変えていくことになります。
人口の変化もはっきり表れています。1995年の国勢調査人口は9,949人でしたが、2020年には6,505人となっています。2026年3月31日時点では、人口5,985人、世帯数3,422世帯です。人口は大きく減少していますが、世帯数は人口ほど大きく減っていません。これは、一世帯あたりの人数が減っていることを示しているとも言えます。
建物よりも変わる「住む人」
この変化は河原町団地だけの問題ではありません。日本全体が人口減少と高齢化に直面しています。かつて子育て世帯を受け入れるために作られた街が、50年後には高齢化した街になる。これは多くの団地やニュータウン、そして将来の大規模マンションにも起こり得ることです。
建物は残ります。しかし、住む人は変わります。子どもが多かった街は高齢者が多い街になり、必要とされる施設も変わります。小学校が閉校し、高齢者施設へ転用されるという変化は、その象徴と言えるでしょう。
河原町団地を歩いていると、建物の老朽化だけが問題ではないことが分かります。本当に大きいのは、街を構成する人々の変化です。マンション管理においても、修繕積立金や建物設備だけを見ていれば足りるわけではありません。そこに住む人の年齢構成や生活スタイルの変化を見続けることが重要になります。
高経年マンションでは、建物の老朽化と住民の高齢化が同時に進みます。河原町団地の変化は、将来の管理組合が避けて通れない課題を先に示しているとも言えます。
河原町団地が現代の管理組合に教えてくれること

建築は残り、街は変化する
河原町団地は、築50年を超えた現在でも強い存在感を放っています。DOCOMOMO Japanにも選定され、建築的価値も評価されています。古い建物だから価値がないのではなく、むしろ長い時間を経たことで、その時代の住宅思想や都市計画を伝える存在になっています。
一方で、街としては大きく変化しています。子どもが減り、高齢者が増え、学校の役割が変わり、共用空間の使われ方も変わりました。つまり、建物は残っていても、街の中身は変わり続けているのです。
管理組合が考えるべき長期視点
このことは、現代のマンション管理組合にも多くの示唆を与えてくれます。マンション管理というと、どうしても大規模修繕、管理費、修繕積立金、管理会社との関係といったテーマに目が向きがちです。もちろんそれらは重要です。しかし、それだけでマンションの将来を考えることはできません。
50年後、そのマンションにはどのような人が住んでいるのか。子育て世帯はどのくらい残っているのか。高齢者が増えたとき、共用施設は今と同じように使われているのか。店舗や周辺施設は維持されているのか。こうした視点も、長期的なマンション管理には欠かせません。
タワーマンションの未来にも通じる話
現在のタワーマンションや大規模マンションも、いずれ築30年、築50年を迎えます。そのとき、建物の修繕だけでなく、街としての持続性が問われることになるでしょう。河原町団地は、その未来を少し先に見せてくれているように思えます。
特に近年増え続けているタワーマンションも、完成時の華やかさだけでなく、将来の管理・修繕・人口構成の変化まで含めて考える必要があります。河原町団地の50年後を見ることは、現在のタワーマンションの未来を考える材料にもなります。
まとめ|河原町団地はマンションの未来予想図かもしれない

50年前の未来都市が残したもの
河原町団地は、単なる古い団地ではありません。高度経済成長期の住宅政策であり、工場跡地を活用した再開発であり、最先端だった建築思想の実験でもありました。そして今では、人口減少と高齢化を経験した住宅都市でもあります。
現地を歩いて強く感じたのは、建物そのものの迫力だけではありません。50年前に描かれた未来都市が、今も生活の場として残り続けていること。そして、その中で住民構成や施設の役割が大きく変わっていることです。
マンション管理への示唆
マンションは完成した瞬間がゴールではありません。むしろ完成してからが始まりです。建物は長く残り、その間に住む人も、街の役割も、社会環境も変わっていきます。
河原町団地の歴史を振り返ると、建物の維持管理だけでなく、コミュニティの継続や世代交代への対応が重要であることが分かります。これは分譲マンションの管理組合にも共通する課題です。
現在のタワーマンションや大規模マンションも、いずれ築30年、築50年を迎えます。そのとき問われるのは、建物の修繕計画だけではありません。住民構成の変化や地域との関係性を含めて、街としての持続性をどう確保するかが重要になります。
河原町団地は、未来のマンション管理を考えるうえで多くの示唆を与えてくれる存在と言えるでしょう。





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